食べるとは、第一に対象生物の死を意味する。それは至極あたりまえの行いであり、人生における最高の悦びの一つであるが、同時に、考えれば考えるほど興味の尽きないテーマでもある。『食べるとはどういうことか』では、食と農の研究者である藤原辰史と小中高生たちが食べることについて鋭く素朴で熱い議論をしており、「考える種」を受け取ることができる。
日本の食ということでいえば、まず米を挙げなければならないだろう。稲の種子である米は、他の穀類に押され消費量が減っているにせよ、依然として玉座を退いてはいない。絵本『稲と日本人』は、人々が森を伐り拓き、山を削り、溜池や水路を掘るなどして、「自然」との死闘をくりかえしながら稲を栽培してきたことを伝えてくれる。稲と人間の狂気じみた共犯の歴史を知れば、米の味が深まることはお請け合い!
食というカテゴリーには「食べる」ばかりでなく「食べられる」ことも含まれるはずである。現代日本において人間が食べられるケースは稀だとしても、看過するには重大すぎるテーマだ。実際、人間の被食は数々の作品で描かれてきたほどに魅力的でもある。映画『ジュラシック・パーク』で、「ヒルのような強欲弁護士」が、逃げ込んだトイレをティラノサウルスに壊されて食われるシーンは爽快ですらある。
吉村萬壱の小説『バースト・ゾーン』では、「神充」なる巨大で真っ黒な怪物に人間が脳を吸われる。彼らは人間の思考を感じ取り、それが気持ち悪くて消し去ろうとしているのだ。人間を人間たらしめる意味や希望や愛情といったものを手放し、人間であることをやめなければ助かる見込みはない。人々はあっけなく吸われていくが、その姿にはある種の平安をも読み取れる。
わたしたちが実際に食べられることは現実的でないにせよ、生き物たちに比喩的な意味で食べられることは現代日本でも可能だし、とても愉しい。生きながらに食い物にされてみたい人は、『人類堆肥化計画』をぜひ。