子どもの頃、食後に居間でテレビを見ながら母が「お腹はいっぱいなのに今度は目がひもじいわあ」とぼやいていたことがあった。テレビにはツヤツヤの美味しそうな料理が大写しになっていて、空腹は胃袋だけでなく目でも感じるものなのかと幼心に衝撃を受けた。
ヴィム・ヴェンダースのドキュメンタリー映画『東京画』では、当時の東京の記録として食品サンプル工房のシーンが執拗に挿入される。外来者として来日した彼が惹かれたのは、日本の食べ物でなくその見本だった。野瀬泰申『食品サンプルの誕生』によると、食品サンプルは大正時代の日本で生まれ、その後しばらく当地固有のものだったそうだ。「食べる」行為以前に三次元で「見る」という段階が存在するのは特徴的なことらしい。もしかして、視覚が食欲に接続しやすい「何か」がこの国にはあるのではないか。湯澤規子『7袋のポテトチップス 食べるを語る、胃袋の戦後史』には〝「他人の目」に食べさせ、「いいね」という承認を得ることで「心」を満たすのが現代〟という証言が登場する。現在の食と眼差しの関係を端的に表した秀句だろう。
料理番組の変遷を手がかりに、近代以降の日本で「家庭料理=愛情」の図式がどのように成立したのかに迫った一冊、山尾美香『きょうも料理 お料理番組と主婦 葛藤の歴史』。この中で著者は、家庭料理の理想とされる「おふくろの味」とは、いくら努力しても到達できない幻であるという答えを発見する。「イメージ」という幻は眼差しから作り出され、時に人を不自由にしてしまうこともある。そこで料理家の瀬尾幸子は、『これでいいのだ!瀬尾ごはん 台所まわりの哲学』において〝日常で体が欲しがっているのは、がんばりすぎない料理〟と自炊の魅力を説いてみせた。眼差されることから離れ、自分の体が「これでいいのだ!」と感じるものを日々作って食べることで、生きることはより豊かで味わい深いものになると教えてくれる。