「昨日おとして今日またひろう」という歌謡曲を聴いたとき、スモモの話だと思った。恋の歌だった。地面に落ちたスモモをわたしが拾うと、それは鳥に食わせるもので、人間のあんたは木から直接もぎとって食べなさい、と祖母に言われた。祖母はスモモをぽーんと雑木林に向かって投げた。落果して土や小石で傷ついたスモモを嫌いになれないわたしは、祖母や鳥の目を盗むようにして拾って食べた。
まるで土が穢れのようだけれど、祖母もわたしも土に触れる日々だった。ナス、キュウリ、トマト、ニガウリ、ピーマン、カボチャ、百姓仕事というのは、うまく落としてうまく拾うのが極意なのだと感じた。百姓というのはいつのまにか差別的用語として遠ざけられ、わたしは記憶ごと奪われる気がしてしまう。骨がらみの因習や道徳観、自己犠牲的な女性像、土地の私有性にはきつい思いがするけれど、土の物質性をまざまざ映した『土』はすごい。乾き、割れ、潤い、生やし、茂らせる。
拾いものを集めて、キッチンで煮たり焼いたりする。キッチンは人の生命の根幹を支える労働現場であり、いまなお合理化が追求される最前衛でもあるだろう。『ナチスのキッチン』は歴史的な空間としてキッチンをふりかえる。給食の始まり、主婦たちの言葉などから、現代の食の姿が膨らむ。
キッチンは女たちで溢れ、女どうしの紛争があり密約があった。『物食う女』は小説、詩、随筆などのアンソロジーで、日本語がどのように食と人間を書いてきたのかを見渡せる。
わたしは鳥の領分を犯していたのだろうか。ふと省みるとき、『人間は何を食べてきたか』を見かえしている。